森村泰昌 / 超・美術鑑賞術/お金をめぐる芸術の話(ISBN:9784480091697)

超・美術鑑賞術/お金をめぐる芸術の話 (ちくま学芸文庫)
いろいろ示唆が多くて、引き込まれるように読んでしまいました。
大別すると2点ほど。

冒頭の、ドラクロワの『七月二八日(民衆を率いる自由の女神)』についての解説で、左下に倒れている男性が下半身だけすっぽんぽんだったという指摘に、もの凄い衝撃を受けました。そこまでちゃんと見たことなかったなぁと思って。
「見仏記」での仏像の見方にも同じようなものを感じましたが、感じた事を無理矢理深く掘り下げよう、理解しようと努める事の他に、もっとシンプルに捉えて良いんだな、というか、少なくとも、感じてしまった事自体は真実なんだな、というか。
例えば、「マカロニほうれん莊」の芸術鑑賞の話のように、雪舟の絵がロケット打ち上げに見えるとか、その程度の事で良いんだなと、大変勉強になりました。

もちろん、一番良いのは両方の視点をちゃんと持つと言うことで、そのためのバランスが、文中に出てくる想像力なのかもしれません。

もう一つは、「島本和彦 / 新吠えろペン(11)」で提示されていた、パクリそのものは悪でも重要でもなく、寧ろその先の何か*1を表現できるかが大事なんじゃないか?(というのは勝手な感想なんですが)に対しての、もうちょっと具体的な話が提示されていたこと。

文中では、手塚治虫が宝塚に影響されて『リボンの騎士』を書いたのであれば、じゃあ宝塚が『リボンの騎士』を演じた場合、ホンモノはどっちになるのか?という話で、ホンモノとニセモノの曖昧さを見事に説明していました。

そして、その回答として、森村氏自身のモナリザのまねによる新たな作品の誕生と、マネのまねをする事でマネの作品の良さをより理解する過程の話が載っていました。

これ以上は消化中なので上手くまとまっていませんが、1,000円でこれだけの衝撃を受けたのならお買い得だったのかも。

2008-11-11追記
フリーダ・カーロの章で語られている、手を汚して作ったものは一回転してITより新しいかもしれないという話は、富野監督のコンテンツマーケットの会場にはCGを使った作品が多いが、同じソフト使ってたら独自の物は作れるわけないと思う。と同じ趣旨のように思います。クラフト・エヴィング商會の話なんか、まさにそういう文脈だったし。

*1:『涙』『魂』『投げ出されることはあっても 自らは投げ出さん』という言葉で表されるような